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ダークソウル世界観考察

ソルロンドと竜血騎士団

 

『1』において地下墓地方面を担当する聖女レア御一行。聞くところによると、彼女たちは故国ソルロンドに伝わる「不死の使命」を帯びてはるばるロードランの地を訪れたのだといいます。不死の使命というとフラムトによるものと混同されてややこしいのですが、ソルロンドにはソルロンド独自の不死の使命があるらしく、その詳細はペトルスの口から語られます。

 

ソルロンドのペトルス (DS1)

聖職における不死の使命とは、まず「注ぎ火」の探索です
「注ぎ火」は、人間性により、不死の篝火を育てる業
それにより、我らは英雄の力を得るのです

まあ、でも、難しいですね。使命は秘匿されるべきですから…

 

彼らにとっての不死の使命とは、ずばり「注ぎ火」の探索です。なんでも注ぎ火は人間性により不死の篝火を育てる業らしく、それによって「英雄の力」得られるのだといいます。彼らの進路が地下墓地であることを踏まえると、これはおそらく三人羽織を倒すことで入手できる「注ぎ火の秘儀」のことを指していると考えられます。

 

注ぎ火の秘儀 (DS1)

注ぎ火にて、さらに大きく篝火を育て
より多くのエストを得るための秘儀
聖職の伝承に秘密として伝わるが
儀式自体はすべての不死人が行える

しかし人は、不死となりはじめて
人間性の「使い途」を得るものなのか

 

ソルロンドのレア (DS1)

でも、気をつけてください この先に、恐ろしい亡者が、2人います
どちらも優れた騎士で…私の、供だった者です
あの者たちが亡者となり、神に背くなど、酷いことですが…
私には…どうしても…どうすることもできないのです…

 

エストの効果を高める注ぎ火の秘儀は、言い換えれば生命力を増強する力です。聖職に広く普及する生命湧きの奇跡がおなじく戦士たちの生命力を増強するものであったこと、白教の聖騎士であるリロイが持つサンクトゥスに自然回復の祝福が施されていること、そもそも回復魔法と白教が密な関係にあることなど、諸々から推察するに、ソルロンドをはじめとする白教国家には生命力=健康的な肉体を保つことを良しとする価値観があるようで、それを極限まで高めた超人こそがペトルスの言う「英雄」のイメージなのだと考えられます。亡者になった従者二名を「神に背く」と嘆いたレアの台詞は、そんな価値観がソルロンドの宗教観と深く結び付いていることを表しています。歩く死体に等しい亡者になることは彼女にしてみれば神が与えてくれた肉体を汚す冒涜なのです。

 

ソルロンドのタリスマン (DS1)

神の奇跡をなす触媒
ソルロンドのそれは高位の聖職者にのみ与えられ

加護により信仰によらず高い威力修正を実現する

 

ペトルスは不死の使命を「秘匿されるべきもの」と口を滑らせていますが、そんな価値観を踏まえれば秘匿されなければならない理由が少し透けてみえます。彼らは神の教えのもと死を忌避しているにも関わらず、注ぎ火という死の力にあやかろうとしているという点で、禁忌に手を出している自覚があるのです。つまりソルロンド司祭らの信仰は言ってしまえば建前であり、それは彼らが用いるタリスマンが少ない信仰で効力を発揮できるように作られている点にも表れています。おそらくレアの敬虔さはソルロンドのなかではむしろ珍しく、だからこそペトルスは彼女を危険な巨人墓場に先行させて意図的に排除しようとしたのかもしれません。

 

さて、まとまりのないことを語ってきましたが、要はソルロンド(の司祭)は生命力ジャンキーであり、そのためなら信仰を蔑ろにしようと禁忌であろうと易々と手を出す生臭坊主の国だった、という文脈だけ押さえていただければ大丈夫です。本考察はこれを少し発展させてソルロンドのその後の歴史を想像したものになります。

 

眠り竜の褥

 

ソルロンドという国の名が『1』より後の作品に登場することはなく、特にカリムやアストラ、ヴィンハイム、大沼といった主要な地名をもれなく登場させた『3』においてもソルロンドだけは一切触れられることがありませんでした。ソルロンドはとうの昔に滅亡したと考えることもできますが、アストラが亡国になってなお名が伝わっていることを踏まえると、それは国名が登場しない理由にはならないようです。

 

この奇妙な空白を埋めるポテンシャルのある国として私が提示したいのが『2』に登場したリンデルトです。リンデルトはソルロンドと同様に、聖職による権威主義的な国家である反面、支配層の信仰が建前化しているという点で内部事情が似通っており、いわば『2』における“ソルロンド役”として演出されている感があります。もちろんそれだけだと単に似ている国として片付けられるのですが、リンデルトは“建国の歴史”という珍しい領域にプロットが割かれており、それがどうもソルロンドの歴史から枝分かれしているように思えるのです。

 

古竜院の長衣 (DS2)

秘儀を伝える古竜院の実態は知られておらず
それに近づこうとする者は皆人知れず姿を消す
古竜院にはリンデルトの建国の歴史が記録されており
それは秘匿されるべきものである

 

リンデルトの建国の歴史、それは聖職らが集う組織である古竜院によって秘匿されているといいます。しかしながら、人の口に戸は立てられぬようで、次のような伝承が半ば公に知られていました。

 

生命湧き (DS2)

中位の奇跡のひとつ、HPをゆっくりと回復する
リンデルトの聖騎士団は前線に立つ際にこの奇跡を用い不倒の戦いを見せる
騎士団にはかつて人々を脅かした毒竜を撃ち滅ぼしたという伝承がある

 

竜血の鎧 (DS2)

竜血騎士の漆黒の鎧、彼らの国の名は既に失われている
竜の血を信奉する竜血騎士団はヨアに率いられ聖壁に侵攻したが
眠り竜の目覚めとともに聖壁に沈んだ
漆黒の鎧を包み込む赤布は竜の血への憧憬を表している

 

毒竜を打ち倒した伝承。竜血騎士団こそ古竜院の母体となった団体であり、リンデルト建国の徒です。彼らは眠り竜シンの血を求めてサルヴァの聖壁に侵攻し、解き放たれたシンの毒によってサルヴァの都もろとも潰えたとされています。しかしながら、この侵攻によって後の古竜院が力をもったこと、誇張されているとはいえ毒竜を打ち倒したという伝承が今日に残っているということは、彼らのなかに逃げ延びて“何か”を持ち帰った者がいたことを意味しています。

 

聖院の護符 (DS2)

祝福が施された護符、使用者の毒を取り除きHPも回復する
奇跡を受け継ぐリンデルトの聖院では
古の力に倣ったこの手の護符が数多く作られている
所詮は模倣されたまがい物でしかないのだが
困窮にあってはそれは些細な問題にすぎない

 

竜の力の護符 (DS2)

祝福が施された護符、使用者の毒を取り除きHPも大きく回復する
竜の力の断片を宿すと言われ古来より伝わる数少ない真品
それが人の手によるのかは定かではないが

 

リンデルトが保有する技術の一端を示すものとして「聖院の護符」というアイテムがあります。これは使用者の毒を取り除きHPを回復させる品ですが、テキストによると紛い物であるらしく、リンデルトの聖院はこれを量産・流通させていたようです。そして護符には「竜の力の護符」と呼ばれる真品が存在しており、護符に宿った力が竜に由来するものであることが明らかにされています。聖院が紛い物とはいえ竜の力を模倣できている事実は、竜血騎士団が持ち帰ったものが単なるサルヴァの略奪品にとどまらなかった可能性を示唆しています。つまり、それが本当に竜の血だったのかは定かではありませんが、彼らが竜の力の一端を持ち帰ったことは確かなようなのです。

 

竜血の大剣 (DS2)

彼らにとって竜の生血は神聖さの象徴であり
血を得た者だけが生の真の理解に至りそれを超越すると信じられている

 

竜血騎士団は竜の血を得ることで生の真の理解に至りそれを超越できると考えていたといいます。「生の真の理解」というのはやや抽象的な表現ですが、竜の力に由来する護符の効果が治療と回復だったことを踏まえるならば、それは古竜の不死性を指していると考えてもあながち的外れではないはずです。そしてここにリンクしてくるのがソルロンドの「不死の使命」の文脈です。前述したように、ソルロンド司祭たちは生命力溢れる英雄になるための手段として注ぎ火を探していました。長い探求のなかで、彼らの関心が単に生命力を増強させることから不死性を得ることに変質していたとしたら、竜血騎士団はソルロンド司祭たちの、リンデルトはソルロンドの未来の姿だったとみることはできないでしょうか。

 

上位聖職の鎧 (DS1)
 *未使用アイテム

しぶとく倒れないことで有名な
白教の聖職の戦士が身につける鎧
その中でも特に黒色のものは
使命を帯びた戦士のものであり
高位の司祭であることも多い

 

薄っぺらいですが、ひとつ物証となるものもあります。竜血騎士の装いの特徴として漆黒を基調とする彼らの鎧がありますが、ソルロンドにおいて使命を帯びた高位の司祭がまとう鎧もまた黒色だったのです。これは『1』の作中では「上位聖職の~」という名前でデータ上に存在しており、ペトルスが身に付けている黒色の聖職シリーズと同一のものであることが分かっています。

 

以上です。後半に急ぎ足になってしまいましたが、書きたかったことは大体こんな感じだったと思います。竜血騎士団がソルロンドを母体とするという解釈が正しいとするならば、なぜ『3』においてソルロンドの痕跡がないのかという点に一定の説明がつくのではないでしょうか。彼らは目的を変え、国の在り方すらも変え、英雄の力ひいては不死性を求めて世界中を探索し、その一部は探索の果てにロスリックの古竜信仰と結び付いた、そう考えるとシリーズを通してドラマ性が生まれます。読んでいただきありがとうございました。

 

アマナの「大いなる死者」考察

 

不死廟に仕えるアガドゥラン、彼は開口一番に「明かりをつけないこと」をプレイヤーに警告します。話を聞いてみると、どうやら彼は「ファニト」なる人ではない存在のようで、かつて「死をもたらした者」から役目を与えられたのだといいます。

 

 人間よ
 けして明かりはつけるな
 これは警告だ
 ここに光をもたらす者は、誰であろうと許さん
 我はアガドゥラン
 この廟の守り手
 ここは無数の死者の安息の場所
 闇という安息に包まれている
 光は何もかもを暴き立てる
 そんな無遠慮なものは、ここには不要だ
 我はファニト 死を紡ぎ、護る者
 かつてこの世界に”死をもたらした者”から、この役目を授かった

墓守アガドゥラン (DS2)

 

光を嫌う思想は、かつて巨人墓地を支配していたニトのそれであり、ファニトという名前からしても、おそらく「死をもたらした者」というのは、最初の死者ニトを指していると考えてよさそうです。少し安直ですが、ドラングレイグはロードランではないので、神の存在が伝わる過程でいくらかの歪みはあったはずで、もしかすると他の神と混同されるようなことがあったのかもしれません。「死をもたらした者」の持ち物であったという闇朧がニトのイメージと合致しないのは、そんな理由によるのではないかと思います。しかしながら、本題において重要なのは「死をもたらした者」の正体ではありません。重要なのは「死をもたらした者」が「光を嫌う」という思想をもっていたという点です。これを踏まえ次にいきます。

 

不死廟のひとつ前のエリアであるアマナの祭壇には、ミルファニトという名前のNPCたちがいます。彼女たちは「大いなる死者」から歌を授かり、アマナに集う不死を慰めているのだといいます。順当に考えて「大いなる死者」はファニトに任を与えた「死をもたらした者」と同じ存在であると考えられますが、彼女たちの話を聞いていくと、なにかがおかしいことに気付きます。

 

 どなたですか…
 私たちに、何のご用があるというのでしょう…
 ミルファニト、それが私たちの名前です
 私の名前…?
 その、”私”とは、なんでしょうか?
 ここの外のことは、何も知りませんので…
 私たちは、死と闇をその身に宿す者たちのために 歌い続けています
 私たちは、ずっとずっとここにいるのです
 外のことは、何も知りません 知る必要もないのです
 あの小さなものたちは ”大いなる死者”から、生まれたのです
 私たちは、その大いなる死者から 歌を預けられました
 その時から、私たちは歌い続けているのです
 死と闇に囚われた者たちを、慰めるために
 私たちは、そう教わりました
 あの小さなものたちは、歌によって舞うのです
 死と闇をその身に宿す者は、あのものたちに惹かれ、癒しと慰めを得る…
 私たちは、そう教わりました

ミルファニト (DS2)

 

ミルファニトは光蟲を歌で舞わせて不死を慰めるといいますが、歌と光で不死を慰めることは、静寂と闇で死者に安寧をもたらすファニトの思想と完全に矛盾しています。つまり光を禁じるのが「死をもたらした者」だとすれば、「大いなる死者」はむしろ光を推奨しているのです。この矛盾が示唆するのは「死をもたらした者」と「大いなる死者」が同一の神ではない可能性です。



闇朧がニトのイメージと合わないのは考えようによっては許容できる範囲ですが、思想が真逆となると話は違ってきます。そもそも歌というのも、いくら神が混同されたとしても静寂を好むニトのイメージとは欠片も合うものではありません。しかもミルファニトの歌は実は『1』のエンディングで流れた「Nameless Song」のアカペラ版なのですが、それを歌っていたのは女性でした。つまり歌ひとつをとっても「大いなる死者」は男性というよりも女性としてのイメージが明らかに強いのです。

 

「大いなる死者」から生まれたという光蟲、これは大変ユニークなアイテムで、使用すると攻撃力と防御力を高めることができます。攻撃力と防御力を高める(与ダメージ上昇と被ダメージ減少)というのはシリーズを俯瞰しても実は珍しい効果で、一部の例外を除くと基本的に太陽の誓いや固い誓いなどのグウィン一族に由来する魔法に集約されています。そして光蟲を使用したときの光を纏うようなエフェクトと、そもそも「光」を発することからみて、ここに浮上してくるのがグウィン一族の影です。

 

ミルファニトは全部で4人存在し、そのうち会話できるミルファニトは2人いるのですが、残り2人のミルファニト(唄うデーモン前と王城最上階)を解き放つと、各々から女神の祝福が贈られます。作中で女神の祝福を手渡ししてくるNPCはこの2人以外に存在せず、唯一の店売りが真上の王城の宰相だけとなっています。ミルファニトはアマナから外に出たことがないらしいので、これは拾ったものというよりも自身で祝福したものであるはずです。つまりミルファニトは女神としての面影をもつと考えられます。そして彼女たちをよく観察してみると、その身体的な特徴が「ある女神」とよく似ていることに気付きます。穏やかに微笑むような顔、豊満な胸、そして栗色の髪。グウィネヴィアです。

 

グウィネヴィアとミルファニト

 

グウィネヴィアを象徴する「太陽の光の恵み」と「太陽の光の癒し」は『2』においてリンデルトの聖院にのみ伝わる非常に稀な奇跡であり、盗み出されたとはいえ、普及しているとは言い難いところがあります。しかし私が知る限りでは作中で唯一、アマナの巫女たちがこの奇跡に非常に類似した魔法を扱うのです。この奇跡がもともとグウィネヴィアに仕える聖女の業だったことを踏まえると、「大いなる死者」にとっての聖女がアマナの巫女たちだった線は大いに考えられるはずです。

 
 

『2』はロードランの「残滓」を巡る物語でもありました。そしてそれを象徴しているのが「4」という数字です。「強いソウルをもつ4つのもの」を倒すことが当初の目的としてあり、そんな旅の最後に立ちはだかるのがドゥナシャンドラでした。彼女はマヌスから分かたれた4人の「闇の子」のうちの1人であり、DLC三作品は残り3人を辿る旅でした。つまり「残滓は4人」という暗黙の公式が『2』にはあったのです。であるならば、4人のミルファニトたちも闇の子と同じように1人の存在から分かたれた「欠片」だったと考えられないでしょうか。

 

結論を言うと「大いなる死者」は少なくともニトではない女神の誰かだった可能性があります。グウィネヴィアの線が最も濃いですが、それ以上考察を深めるだけの繋がりは見いだせません。グウィネヴィアは火の神フランに嫁いだとされています。もしフランがドラングレイグの地にいた古い神だとすれば、グウィネヴィアが「大いなる死者」である可能性は大いに高まります。名を刻む者の指輪のテキストによると、確かにドラングレイグの地には滅び去った神がいたといいますが、その内の一柱にフランがいたと考えるだけの大きな根拠は残念ながらありません。グウィネヴィアは多くの神とともアノール・ロンドを去ったらしいので、もしかすると名前の登場していない女神の一柱がドラングレイグに居着いたと考えることもできますが...これ以上の考察は止めておきます。

 

 

最初の賢者サリヴァーン説の擁護



 

はじめに

最初の賢者は誰なのかという議論があります。主流の考え方は主に二つあり、一つは外征騎士がソウルの奔流を守っていることから最初の賢者をサリヴァーンとする考え方。もう一つは、ソウルの奔流がアンディールに起源をもつという前提に基づき、最初の賢者をアンディールとする考え方です。おそらくはどちらも正しく、そこに明確な答えは用意されていないのでしょうが、その上であえて個人的な見解を言うなら、サリヴァーンが最初の賢者であったほうが多くの物事に説明がつくと感じています。本考察では『3』における「思想の対立」という切り口から、私がそう感じる理由について解説していきたいと思います。前回は一部と言いながらかなり冗長になってしまったので、今回は短くいきます。

 

思想の対立

ダークソウルは「思想の対立」をひとつ重要なテーマとして描いていたように思えます。たとえば『1』ではフラムトとカース、『2』ではシャナロットとアンディールといったように、火がもたらした差異は人々の思想における二面性すらも照らし出したのです。そしてこのテーマが最も如実に表れたのが『3』でした。『3』は過去作品と比べても登場する思想派閥の数がとりわけ多く、それは『3』をシリーズで最も難解なものにしている原因でもあります。

この複雑な世界観を一部解消する手立てとして私が見ているのが、サリヴァーン最初の賢者説です。サリヴァーンはイルシールで法王に成り上がった人物ですが、彼がイルシールに広めたと考えられる思想が、ロスリックの権力構造に歪みをもたらした最初の賢者のそれとピタリと合致するのです。

 

エンマの確執

ロスリックにとって火継ぎ信仰とは先祖代々受け継がれてきた国家のイデオロギーです。それは元を辿ればグウィンの遺志であり、ロスリックが白教に属する宗教を信仰していたことを意味します。王国内に太陽信仰の痕跡が見られるのは、おそらくそういった背景からでしょう。そしてロスリックは「王家」と、それを支える「三柱」(賢者・騎士・祭儀長)、そして三柱に対する王家の抑止力として「狩人」という3つの独立した組織によって国家運営がされています。これは組織同士の相互監視によって権力バランスを保つという、いわば我々の世界でいうところの三権分立のような機能をもっています。

 

 騎士はロスリック三柱のひとつであり
 賢者が大書庫を得て後
 祭儀長との結びつきを強めたという

武器の祝福 (DS3)

 

しかしあるとき、この権力バランスに歪みが生じました。火継ぎ信仰と対になる「火継ぎへの懐疑」という思想をロスリックにもたらした者が現れたのです。それが最初の賢者として知られる人物です。彼は王家と繋がることで大書庫を立ち上げ、王家と賢者たちを火継ぎへの懐疑という思想のもとで結び付けました。そして王家と賢者に対抗するかたちで祭儀長と騎士が結びつきを強め、火継ぎ否定派(王家と賢者)と火継ぎ肯定派(祭儀長と騎士)に分かれた対立構造がロスリックに生まれたのです。

 

 さあ、火の無い灰よ。高壁の下に向かいなさい
 大城門の先、渡した小環旗が貴方を導くでしょう
 そして、注意なさい。大城門には、番犬がおります
 忌々しい、冷たい谷の番犬が…

祭儀長エンマ (DS3)

 

ロスリックの実質的な最高権力者である祭儀長エンマにとって、ロスリックに対立の原因を作り出した最初の賢者はまさに仇敵とも言える相手でした。そして彼女は冷たい谷すなわちイルシールに対して、確執ともとれる感情を抱いていることが台詞から窺えます。イルシールの先にいる者、それはサリヴァーンです。

 

火継ぎの懐疑という思想

サリヴァーンは「法王」すなわちダークソウル世界における世界宗教の白教のトップであり、一見するとエンマ寄りの思想を持っているように思われますが、実際は彼は聖職者の皮を被った生粋の魔術師であり、その思想はむしろ神を否定する理性主義に根差したものでした。白教と火継ぎ信仰の総本山であるグウィンドリンをエルドリッチに供したことはまさにそれを象徴しています。そしてなにより、彼がイルシールにもたらした「変化」がそれを物語っています。

アノール・ロンドの膝元であるイルシールはもともとグウィンドリンのもとで火継ぎ信仰を推し進める敬虔なる都でした。しかしサリヴァーンが「消えない火(罪の火)」を持ち込んだことで、そのイデオロギーは大きな変革を迎えることになります。消えない火があるのなら、わざわざ古臭い神の意向に従って「消えゆく火」を傅く必要はない、そう考えるものたちが現れたのです。そしてサリヴァーンが法王に就任したという事実そのものが、そんな信仰離れのトレンドを象徴しています。罪の火の発見に伴い、火継ぎ信仰の妥当性を問われるようになったことで、その総本山であるグウィンドリンは元より乏しかった求心力をさらに失い、サリヴァーンを法王の座に就かせることを許してしまったのです。サリヴァーンは極めつけに暗月の騎士団を弾圧することでグウィンドリンの実質的な武力を奪い、イルシールを完全な支配下におきました。

サリヴァーンの法王就任によって、それまでの火継ぎ信仰を否定する動きが強まり、深み教をはじめとする一部白教組織の教義を変質させるまでに至りました。そしてそんな情勢のなか、代々火継ぎによって権力を維持してきたロスリックが火継ぎの是非を巡り対立したのは果たして偶然でしょうか。少なくとも私はこれはサリヴァーンの影響によるものと考えるのが自然だと見ています。そして、ロスリックに火継ぎの懐疑をもたらした最初の賢者、彼がサリヴァーンだとすると、いろいろと辻褄が合うのです。

 

おわりに

以上です。サリヴァーンは前回の記事でかなり端折って書いてしまったので、今回はそれの補足という狙いもあります。かなり短くまとめてみましたが、これくらいの文章のほうが読まれる皆様にとっても私にとっても良いのかもしれません。読んでいただきありがとうございました。

 

 

罪の火とイザリスの因果

 

 

はじめに

結局、罪の火って何だったの?という疑問があります。一応、作中では「罪の都を焼いた」「人々だけを焼いた」「消えない火」などなど、説明はされているのですが、これらの説明はどこか遠回しで、核心をついていません。ではそれが全く中身のない設定なのかというと、私はそうではないと考えています。ここには過去作品から受け継がれた“ある文脈”が生きていると思うのです。本考察はその解説になります。あくまで罪の火を理解するうえでの材料的な考察になるため、罪の火の正体については深く踏み込んでいません。いずれそちらの考察も書きたいと思っていますが、最初なのでとりあえず部分的にまとめてみました。

 

追尾する火

罪の火はつかみどころのない概念ではありますが、これを理解するうえでひとつ大きなヒントになっているのが、罪の都の宮殿入り口に配置された炎です。「いかにも」な場所にあるこの炎は、罪の火の説明のひとつと合致する特徴を備えており、しばしば罪の火と同じものあるいはそれに近しい物として見られることがあります。

 

炎が放つ火球はただ真っ直ぐ飛んでくるのではなく、プレイヤーを追尾するように飛び、また、誘い頭蓋を撒けば火球はその場所に飛んでいくようになります。つまり火球は明らかに「人に反応」しており、これが「人々だけを焼いた」という罪の火の性質を再現していると考えられるのです。

罪の火を灯すといういくつかの武器、ガーゴイルの灯火槌や火刑の芒の戦技が、どれも追尾する炎を放つものであったことから考えても、罪の火と追尾性には確かに関連があると言えそうです。そしてこの追尾性という観点から罪の火をみると、興味深い落とし所があることに気付きます。それは「魔術」です。

 

罪の火と魔術

追尾性は魔術の専売特許です。代表的なところでは「追尾するソウルの塊」や「深みのソウル」があります。そしてそれらの魔術は不思議と罪の火とゆかりのあるケースが多いのです。たとえば「追尾するソウルの塊」はローガンの魔術とされますが、罪の都の宮廷魔術師たちはまさにそのローガンの後継を主張する一派です。「深みのソウル」は冷たい谷のマグダネルが大主教たちに伝えたとされる魔術ですが、冷たい谷はサリヴァーンが罪の火を広めた地です。

これを踏まえたうえで呪術「罪の炎」に着目すると、一見なんでもないこの呪術の見方が少し変わるはずです。『3』では通常、呪術を扱うにあたって理力と信仰の両方を求められることが多いのですが、この呪術は一切の信仰を必要としないばかりか、必要理力が呪術のなかでは飛び抜けて高く、また、標的のいる場所に爆発を発生させるという芸当は、要は「生命に反応する」ということであり、追尾する魔術と本質的に似ているとも解釈することができます。手元や周囲にただ炎を発生させる呪術という業のなかにおいて、それは明らかに異質な性質です。

そして「罪の炎」はそのモーションや性能から『2』に登場した「炎の鎚」との類似性を認められますが、この呪術を作り出したストレイドは単なる呪術師ではなく、あらゆる魔術と呪術に精通した異能の“魔術師”だったといいます。

オラフィスに招かれた流浪の魔術師ストレイドは、いくつかの魔術と呪術を生み出したといいます。そのうち明らかにされている魔法は4つ、「漂う火球」「炎の鎚」「追尾するソウルの矢」「ソウルの閃光」です。そのうち少なくとも3つが生命に反応する性質をもっていると見ることができるうえ、「漂う火球」は「追尾するソウルの塊」、「炎の鎚」は「罪の炎」、「追尾するソウルの矢」は「深みのソウル」といったように、不思議なことに類似する魔法がことごとく罪の火に関連する魔術に集中していることが分かります。

 

魔術師になった聖職者たち

さて、罪の火が追尾する性質をもっている可能性があること、魔術との何らかの関連が示唆されていることについて述べてきました。この点を踏まえ、罪の火の舞台となった罪の都と冷たい谷のイルシール、このふたつの都で活躍した魔術師たちに焦点を当ててみると、彼らにはある共通点があったことがわかります。

前述の通り、かつて罪の都には宮廷魔術師たちがいたとされ、彼らはローガンの後継を主張していたといいます。興味深いのは、彼らが魔術師でありながら神官でもあったという点です。しかし魔術と奇跡は相容れないものであり、特殊な例を除いて両立することは普通ありえません。宮廷魔術師エーメンを例にみると、案の定彼は奇跡を一切使わず、その代わりにローガンの魔術を操ります。ということは彼らが神官とは名ばかりの魔術師だったということになりますが、しかし邸宅のなかには確かに高位の奇跡「神の怒り」があり、神官であることを偽っていたわけでもないようです。

 ローガンの後継を名乗った宮廷魔術師たちにも
 三分の理ていどはあったようだ

ローガンのスクロール (DS3)

この齟齬を説明するものが、ローガンの後継云々の文脈であると思われます。このテキストを「盗人にも三分の理」という本来のことわざの意味に則って解釈するなら、彼らの魔術師としての性格はローガンの魔術をどこかから手に入れたことによる後付け的なものだったと見ることができます。そして宮廷魔術師の装いが神官のそれであったことを踏まえると、彼らは魔術師である前に神官だったはずです。つまり宮廷魔術師たちは、ローガン魔術を見いだしたことで神官としての本分を捨てた“元”神官たちなのです。

しかしなぜ彼らは神官としての本分を捨ててまで魔術に傾倒するようになったのでしょうか。ここで考えてみたいのが、同じく罪の火の関係者である「火の魔女」たちも、宮廷魔術師たちと同じように、聖職者から魔術師へ鞍替えをしていたという点です。

 法王の騎士を率いた魔女たちは
 元は聖騎士に叙されたものだが
 すぐに罪の火に心奪われたという

火の魔女の兜 (DS3)

罪の火を掲げ、触媒によって魔術を操る火の魔女たちは、もともとアノール・ロンドの神々に仕える聖騎士でした。彼女たちはサリヴァーンによってイルシールに持ち込まれた罪の火に心奪われ、聖職者であることを辞めて魔術師に鞍替えしたのです。

宮廷魔術師と火の魔女の両者の鞍替えが罪の火の影響によるものなのであれば、その原因は罪の火側の“都合”にあったはずです。つまり罪の火が魔術の領分であるが故に、それを扱おうとする彼らが魔術師に近づいていったと考えることができるのです。

罪の火が魔術の領分、このことを更に裏付けているのが、罪の火の関係者のなかで唯一最初から魔術師だったサリヴァーンが、イルシールにおける罪の火ブームの火付け役になったという事実です。なぜ絵画世界からきた部外者である彼が、イルシールの民を差し置いて最初に罪の火の有用性に気付くことができたのでしょうか。サリヴァーンとイルシールの民、この両者の差異を考えたとき、要因として浮かび上がってくるのが魔術の心得の有無です。サリヴァーンはイルシールを訪れた当時若き魔術師でした。これに対して、イルシールの民は魔術の心得を知らない聖職者がその大多数を締めていた可能性が高いのです。なぜなら、イルシールは古い信仰の地であり、信仰とは相反するものである魔術は忌避されていたはずだからです。つまりイルシールには、罪の火の有用性に気付くことのできた一人の魔術師と、気付くことのできなかったその他大勢の非魔術師という構図があったとみることができます。このことが示唆しているのは、罪の火が魔術の知識なしには扱えないもの、あるいは魔術師にしかその価値を理解できないものだった可能性です。

 

過去の因果

ここで一旦話を最初に戻しましょう。「人々だけを焼いた」という記述から罪の火と追尾性を結びつけて考え、罪の火と魔術の関係性について触れてきました。しかしこれだけではやや穿った見方であることは否めません。そこで今度は全く別の視点から罪の火をみた場合でも、似たような考察ができることを解説していきたいと思います。

別の視点、それは罪の火の舞台となった罪の都はそもそもどのような舞台として演出されていたのかという点です。地の底というロケーション、カタリナ騎士によるイベント、食欲を司る奇妙なエネミー、そして炎によって滅びた都というプロット。これら一連の符号から一つ言えることがあります。それは罪の都が『1』の廃都イザリスの流れを汲む舞台として演出されているということです。

もちろんふたつの都に直接的な関係はないのでしょう。しかし、そこで起きた出来事が文脈を同じくしている可能性は十分考えられるのではないでしょうか。緑衣が言ったように、ダークソウルは同じことが繰り返される世界です。不死の英雄がグウィンを斃して最初の火を継いだその時から、望むと望まざるとにかかわらず、世界は同じ火の時代を繰り返し続けました。そういった世界観のうえに成り立つ物語であることを考えたとき、この符号の一致は決して無視できるものではないはずです。

 

イザリスと炎の魔術

罪の都が炎によって滅びたように、廃都イザリスもまた炎によって滅びた都であると伝えられています。いくつかのテキストや会話によると、イザリスは自身のソウルを使って「最初の火」あるいは「自分だけの炎」を作り出そうとしたらしく、その過程で事故は起きました。彼女の火は彼女自身に牙を向き、娘たちもろとも都を地獄に変えてしまったのです。

そしてやはりここにも魔術の気配がありました。「炎の魔術」です。作中では炎のスペルは専ら呪術に限られるため、私たちがそれを扱う機会はありませんが、かつて魔女たちは触媒によって炎を意のままに操ったといいます。

少し話が逸れますが、炎の魔術が「魔術」を冠することから、よくシースと結びつけて考えられることがあります。しかし結論から言うと両者に関係はないと私は考えています。それはダークソウル世界の魔術が、実態のない「論理」にすぎないからです。

 魔術とは論理的な学問体系であり
 その威力は術者の理力に依存する

強いソウルの太矢 (DS3)

ダークソウル世界における魔術とは「論理的な学問体系」であるといいます。それはオカルト的な魔術というより、我々の世界でいうところの科学に近いものです。魔術が色濃い場所に天球儀や顕微鏡などの自然科学に関連した道具がみられるのは、魔術の本質が、自然科学がそうであるように、自然法則を解明することにあるからです。言い換えれば、自然のなかに存在するソウルや音、光や炎といった現象を、どの方向からどれくらいの力を加えればどう変化するのかという「論理」によって御する業、それが魔術なのです。シースが魔術の祖とされるのは、我々の世界でガリレオが科学の父とされるのと似ています。つまりシースは未知の法則に気付いてそれを研究していたという意味では確かに祖ですが、現象そのものを作り出したわけではないのです。おそらくは「魔術」という概念も人間がシースの研究を勝手に解釈して作り上げたものであるはずです。そういう意味では、人間にとってシースは正しく魔術の祖ではあるのですが。

 私の母イザリスは、かつて最初の王の1人だった
 最初の火のそばで、ソウルを見出し、その力で王になったんだ
 …そして母は、その力で自分だけの炎を熾そうとして
 …それを制御できなかった

イザリスのクラーナ (DS1)

話を戻します。クラーナの話によると、イザリスは火を「制御」することができなかったために事故を引き起こしたといいます。制御ということはそこに合理的なアプローチが介在していたことを意味し、イザリスが火を作りだすために炎の魔術を用いていたことを示唆しています。つまり炎の魔術は決して攻撃にのみ用いられた業ではなく、炎を理解し制御するための業であり、イザリスはそれを火を人工的に作ることに応用したのです。

 呪術とは、炎の業、炎を熾し、それを御する業だ
 だが、いいか。これだけは覚えておけ
 炎を畏れろ。その畏れを忘れた者は、炎に飲まれ、すべてを失う
 もう、そんなものは見たくないんだ…

イザリスのクラーナ (DS1)


 炎の制御を知り、また制御できぬを知る 呪術とはそういうものだ

薙ぎ払う炎 (DS3)

イザリスが高度な魔術を用いたことは、後の「呪術」がなぜ原始的な業に回帰したのかという理由にも繋がっています。というのも、呪術は事故の後にクラーナによって編み出された業ですが、会話の節々から分かるように、彼女はイザリスの行いを省みていたようで、呪術は炎の魔術に対するカウンターカルチャーという側面をもっているのです。呪術の教義である「火の畏れ」とは、要は「罰が当たるかもしれないから火はほどほどに利用しろ」という素朴な警句であり、それはイザリスの失敗を間近で見ていたクラーナだからこそ得られた教訓であるはずです。つまりクラーナからみてイザリスの炎の魔術は明らかに「行き過ぎた魔術」だったのです。

しかしイザリスとて元々魔術に傾倒していたわけではありませんでした。宮廷魔術師たちが神官から魔術師へ鞍替えしていたように、イザリスもまた祈祷師から魔術師へと魔術的性格を変化させていた痕跡が見受けられるのです。

 

ふたつの杖

『3』に登場したイザリスの杖は、名前や見た目などは『1』のものと同じですが、その能力補正にユニークな特徴をもっていました。『1』のイザリスの杖が理力補正だけをもつのに対して、『3』のイザリスの杖は理力補正にくわえて信仰補正を併せ持っているのです。テキストによれば、杖が信仰補正をもつ理由は、魔女たちが祈祷師でもあったからだといいますが、しかしこの説明は同時に、信仰補正をもたない『1』の杖を扱った魔女たちが祈祷師ではなかったことを示唆しています。

 イザリスの魔女が混沌に飲まれる前
 まだ娘たちが炎の魔女だった頃の杖
 呪術はまだ生まれておらず
 彼女たちの杖も魔術の触媒であったが
 その炎の魔術は完全に失われてしまった

イザリスの杖 (DS1)

 イザリスの魔女たちが用いたという杖
 遥か昔、混沌も呪術もまだなかった頃のもの
 後に混沌の火を生み出した彼女たちは
 魔術師であると同時に祈祷師でもあり
 故にこの杖は信仰補正を持っている

イザリスの杖 (DS3)

ふたつの杖のテキストを比較したとき、そこで説明されている「時期」に微妙な違いがあることに気付きます。『1』の杖が「混沌に飲まれる前」を説明しているのに対し、『3』の杖は「混沌がまだ無かった頃」を説明しているのです。これは一見同じ時期を説明しているようにも読めますが、魔女が混沌に飲まれた時期と混沌が生み出された時期のあいだに隔たりがあるとすればどうでしょうか。その場合、このふたつの杖は全く異なる時期について説明していることになります。

宮崎氏によると、爛れ続けるものは「混沌の炎が不安定だったころ」に生まれてきた最初のデーモンであるといいます。不安定「だった」ということは、その後に安定的な時期が訪れ、そこから生まれてきた個体もいたはずです。炎に適応していることが安定した混沌から生まれてきた証拠なのだとしたら、まず間違いなくデーモンの炎司祭がそれに当てはまるでしょう。彼もまた最初のデーモンであるといい、纏った炎に適応しているからです。

炎の魔術の知識は魔女とともに失われたはずであり、炎司祭が炎の魔術を学ぶためには魔女が健在である間に生まれていなければ辻褄が合いません。廃都イザリスやデーモン遺跡にデーモンを模した像が作られていることからも分かるように、ある時期においてデーモンと魔女は共存していました。すなわち、魔女が混沌に飲まれた時期と混沌が生み出された時期のあいだには、ある程度の隔たりがあったのです。

つまり混沌の火(炎)には不安定な最初期と、安定した中期、そして暴走を起こした末期があったと考えることができます。この時系列に前述の杖の話を照らし合わせて考えると、『3』の杖は初期以前のもの、『1』の杖は末期のものということになり、ふたつの杖はそれぞれ年代の異なる杖であると考えることができます。そして、初期以前に作られた杖にあった信仰補正が末期に作られた杖からは消えているということは、それはつまり、混沌を制御する過程で魔女たちの祈祷師としての性格が廃れていたことを意味するのです。

これは次のように解釈できないでしょうか。はじめイザリスは炎に「お願い」する祈祷師であり、だからこそ原初の呪い(まじない)は不作為な「嵐」の姿をしていたが、あるときから合理によって炎を制御することを覚え、それは嵐のかたちを「球」や「鞭」に変え、終いには伝統的な祈祷師としての性格を廃れさせ、原初の呪術は魔術へと変異し、火を作るという目的を叶えるための合理にのみ傾倒していった、と。

ここまでの話をまとめると、罪の都と廃都イザリスはそのどちらもが特別な火によって滅んでおり、それを扱う者が等しく魔術に傾倒していた節がみられます。そして「因果が繰り返される」という世界観を考慮するならば、このふたつの都で起きた出来事は明らかに文脈を共有しており、イザリスにとっての「最初の火」は、宮廷魔術師たちにとっての「罪の火」であり、それを扱う鍵となるのが「魔術」だったということで共通しているはずです。そしてそこから見えるのは「魔術によって火を作ろうとした者に“罰”が当たった」という文脈です。

 

忘れられた罪人と魔術

最後に『2』における文脈を確認して終わりたいと思います。イザリスの因果の残滓として描かれる『2』の忘れられた罪人、彼女の素性は誰も覚えていないとされていますが、テキストの情報を注意深く繋げていくと、実は十分に考察することができます。彼女の素性はかつてオラフィスで迫害を受けた魔術師、その統率者です。

ドラングレイグの南端から海を渡った先、そこにメルヴィアという国があります。メルヴィアは魔術と呪術が栄える魔法先進国として知られ、いくつかの高名な魔法院を擁しています。魔法院はいわゆる大学機関であり、魔術の研究や魔術師の育成が行われているほか、占星術や指輪技術など、さまざまな分野に精通しており、その豊富な知識を称えて「魔法院の叡智」と呼ばれます。

 魔法院の遠い始祖にあたる人々は
 北の海から流れ着いた罪人であったとも言われるが定かではない

静かに眠る竜印の指輪 (DS2)

そんな魔法院の遠い始祖にあたる人々は、北の海から流れ着いた「罪人」だったといいます。メルヴィアからみて北の海の先にあるのはドラングレイグなので、罪人はもともとドラングレイグの地にいた人々であることが分かります。「定かではない」とされていますが、この話の信憑性を示すかのように、ドラングレイグの南端には人々を海に送り出す隠れ港と、罪人を収容するための忘却の牢があり、そこには次のような伝説が残されていました。

 

 番人は牢から溢れた人々を粗末な船に押し込み遠洋へと送り出した
 その多くはそのまま海に没したが僅かな生き残りは南方に流れ着き
 かの地に魔術を伝えた

トゲ棍棒 (DS2)

 かつての王は近海を荒らしまわる蛮族を捕え
 牢獄に閉じ込める代わりに隠し港での労役にあたらせていた
 恐怖と猜疑心に囚われた王はあらゆるものを呪いの源と疑い
 特に魔術を操る者たちは厳しい迫害を受けた

蛮族の直剣 (DS2)

南方の「かの地」とは、明らかにメルヴィアのことを指しています。また「魔術を伝えた」とあり、牢にいた罪人たちの素性が魔術師であったことが示唆されています。これを裏付けているのが「蛮族の直剣」のテキストです。王は呪いから国を守るためにあらゆるものを牢に閉じ込め、特に魔術師を厳しく迫害していたといいます。つまり、魔法院の遠い始祖にあたる人々は、かつてドラングレイグにあった国で迫害された魔術師たちであり、彼らの知識がメルヴィア魔法院の魔術や呪術、占星術や指輪技術などの「魔法院の叡知」を形作ったと考えることができます。

 ストレイドは万の知識を買われ古き国オラフィスに招かれたが
 その優れた力はむしろ畏れられ愚劣な罠に陥れられた

黒衣のフード (DS2)

そしてかつてドラングレイグの地には「叡知」を誇った国がありました。オラフィスです。オラフィスについて分かっていることはほとんどありませんが、唯一明らかなのがストレイドとの接点です。ストレイドは万の知識を買われてオラフィスに招かれた大魔術師でした。オラフィスはおそらく彼を宮廷魔術師のような地位で召し抱えたのでしょう。そして言うまでもなく、オラフィスはストレイドの叡知によって発展しました。つまりメルヴィアの叡知はオラフィスの、そしてオラフィスの叡知はストレイド個人に根差しているというわけです。

オラフィスの末期は前述したように、呪いを恐れた王による叡知の迫害でした。ストレイド自身もその例に漏れず、罠にはめられて石にされていたことを考えると、迫害はよほど無差別なものだったのでしょう。魔術師が特に厳しい迫害にあっていたということは、当時の魔術師たちの統率者にあたる者は最も厳重に幽閉するべき対象として見られたはずです。それが誰かは分かりませんが、確実にいたであろう魔術師たちの統率者、それが忘れられた罪人の正体であると私は考えます。

 昔ね、あなたみたいな不死を
 封じ込めようとした人間がいたわ
 全部閉じ込めてしまえば、
 それで済むとでも思ったのかしらね
 大きな牢獄を作って…
 でも結局、何もかもムダだったんだけど
 その牢獄のずっと奥に“忘れられた罪人”がいるのよ
 はじまりの火を生み出そうとした、バカな罪人がね

愛おしいシャラゴア (DS2)

不思議な猫シャラゴアによると、忘れられた罪人は「はじまりの火」を作り出そうとしたした罪によって幽閉されたのだといいます。つまりイザリスがそうであったように、彼女は合理(魔術)によって最初の火を作るという野心を抱き、それによって我が身を滅ぼしたのです。彼女の場合はそれが幽閉という結果に繋がったという点でイザリスのそれとは異なりますが、これだけでも十分文脈を共有していると言えるでしょう。そしてそれが示唆するのは、罪の都で起きた出来事もまた「魔術によって火を作ろうとした者に“罰”が当たった」という文脈に準じているということです。

 

予見されていた罪の火

呪術「罪の炎」がストレイドの「炎の鎚」と類似していることを先に述べましたが、実はもうひとつこれに類似したものがあります。それはデーモンの炎司祭が使う「炎の魔術」です。彼の使う魔術はいくつかの種類があり、そのうちのひとつに炎の鎚と酷似した技があるのです。少しメタなことを言うと、おそらくこれが炎の鎚ー罪の炎のアイデアの原形なのだろうと私は思っています。イザリスの因果と魔術が密接に関係しているという文脈があるからこそ、ストレイドの呪術のひとつに炎の魔術の流れを汲むものがあるのです。そしてこの文脈は『3』で「罪」というテーマのもとに再構築され、私たちの前に提示されたのです。

おわりに

以上です。結論に乏しい考察で申し訳ありません。罪の火の正体を炎の魔術と言い切ることもできたのですが、まだこの理屈だけでは補足しきれていない要素があります。それが「闇」です。混沌の炎が人間性によって力を増すことは知られていますが、それと同様に罪の火にも人間性の闇が深く関わっていることが随所にて示唆されており、おそらく罪の火の正体を断定するためには、その文脈の先を説明する必要がありそうです。そして私はまだそれをまとめきれていません。いずれにせよ、ここまで読んでくださった方がいればお礼を申し上げます。ありがとうございました。